クソどうでもいいことを真面目に書きます

誰も気にしないようなことを一生懸命考えます

「すごい人」って本当にすごいの?

 最近、やたらと「すごい人」ないし「すごい学生」が増えているように感じます。

 彼らは、海外経験も豊富だったり起業の経験があったりするなど、その半生を他人に話せば誰もが「すごい」と感じることでしょう。

 しかし、そのような誰もが「すごい」と感じる人は本当にすごいのでしょうか?

 ”誰もが「おいしい」と感じる料理は、結局は平均的な味なのである”という話を聞いたことがあります。
 つまり、「おいしさ」の要素を多く詰め込めば誰にとってもおいしい料理になることは間違いないが、そのような料理は結局極めて平凡でありがちな味になってしまうということです。

 もちろん、多くの人に「おいしい」と思ってもらえる料理を作ること自体は非常に難しいことであり、かなりの時間をかけて研究を重ね続けてようやく完成するものであることは理解しています。
 同様に、多くの人に「すごい」と思わせること自体はすごいことだと思います。

 ただ、多くの人に「すごい」と思わせる人というのは、結局は「すごさ」の要素をたくさん詰め込んでいるだけで、結局は他の「すごい人」たちと比較して差がないのではないかと感じています。
 要するに、「すごい人」であっても、他の「すごい人」たちの中に放り込んでしまい、それを外から見ると「平凡な人」になってしまうのでないかと思います。

 「すごい人」たちの多くは、「すごい人たちが集まる場」に好んで足を運びますが、それは自身の平凡さを感じたいがためではないでしょうか。
他の「すごい人」たちの輪に入ることで自分の平凡さを感じ、さらに「すごく」なるための行動へのエネルギーと変えているのです。
 「すごい人」たちが全員このような行動をとるため、「すごい人」たちはどんどん「すごく」なっていくというわけです。

 こうなっていくと、もはや「すごい人」であること自体が目的になってしまうのではないでしょうか。

 本来は、「すごい」経験をすることは、自分自身への投資であるべきだと考えています。
 自分自身が満足し、自分自身の将来の充実のため、まさに自己満足のために行われるべきで、その成果や過程は他人が評価するものではなく、自分自身によって評価されるべきです。
 ところが、「すごい人」たちにとっては他人からの評判を高めるための宣伝費、つまり費用になってしまっているのではないかと感じます。

 投資であれば、費やした時間やお金は形を変えて永久になくなることはなく自分のものになりますが、費用であればそれらは一時的な効果を持つだけですぐに消えてしまいます。

 「すごい人」の多くが異口同音に主張する、「一度きりの人生なんだから、楽しいことをやらなければ損だ」ということに関しては、間違いはないと思います。
ただ、その「楽しいこと」というのが、彼ら自身が楽しんでやっているというよりは、他人から見て「楽しそうなこと」でしかないことが多いように感じます。

 自身は楽しくはないが、ただ「楽しそう」に見えるようなことを追求し続け、「楽しいことを続けられるすごい人」との評価を保ち続ける努力をしている人を見ると、空しくなります。
 「他人の評価なんて気にせず、本当に自分がやりたいようにやればいいのに」と、勝手に思ってしまったり。


 我々投資家も、ともすれば「すごい人」に見られがちかもしれません。
 投資家であること自体に満足してしまい、投資家として本来目指すべきである、「市場からのリターン獲得」への関心が弱まってしまうこともあり得ます。

 「名より実」の精神を常に念頭に置いて、他人の評価にとらわれることのない、絶対的な収益を貪欲に狙っていくことを心掛けたいですね。